最新更新日:2024/12/20
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志水廣 1064 親子で学ぶ算数教室98 「□と△はいくつ」


笑瀾万丈64 ☆附属小学校の8年目

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64 ☆附属小学校の8年目
筑波大学教授の能田伸彦先生から電話がかかってきた。
能田先生は、恩師の三輪辰郎先生の後を受けて、数学教育講座の責任者であった。能田先生とは、算数の教科書の編集で一緒に仕事をさせていただいていたので、知り合いであった。しかし、直接の弟子というわけではなかった。愛知教育大学で助教授を募集しているから応募しないかという電話だった。まさかという感じであった。しばらくの時間考えた。そこからやはり大学に行きたいと思い、朝の7時半に能田先生に電話をして「よろしくお願いします。」と伝えた。能田先生からは、応募するのなら「愛知で頑張るつもりでやりなさいよ」と激励された。
そこから、応募書類をもらって業績の整理をし、大学へ送った。
愛知教育大学とは全くご縁がなかった。愛知教育大学数学教育講座の柴田録治教授とは算数の教科書の会議で面識があった程度である。応募して、審査の上、合格となった。数人の応募があったと聞く。


志水廣 1062 動画 親子で学ぶ算数教室95 「式を作ろう」

志水廣 1062 動画 親子で学ぶ算数教室95 「式を作ろう」

愛知教育大学時代編 63笑瀾万丈劇   ☆ドライブしているヒロシ

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愛知教育大学時代編

63笑瀾万丈劇  ツウキンのドライブ

☆ドライブしているヒロシ
 目の前にぱっと見えてきたのは、朝日に映える雪景色の富士山。火曜日の朝、時刻は午前6時30分。ヒロシは東名高速道路を走っていた。さすが冬の富士山である。圧巻である。つい二ヶ月前には想像もつかない行動であり光景である。東京板橋区から愛知教育大学に向かう通勤途中である。車はダイハツの珍しい1600ccのアプローズである。色はグレーメタリック。日産シーマと同じ色だと言えば、年配の人はおぼろげながら思いだすだろうか。非常にシックな色。というか、地味そのもの。現在のヒロシの車(V40)とは対極の位置にある車である。アプローズの前が軽自動車だったため、550ccから1600ccへの変化はとても革命的であった。とても安心感のある車であった。
 なぜ、ヒロシは遠距離通勤をしたのであったか。愛知教育大学に赴任したのが1992年10月である。そこから6ヶ月間、単身赴任した。娘が小学校六年生のため、卒業まで一家そろって転居できないためであった。月曜日または火曜日に愛知に行き、金曜日の夜中に東京に帰るサイクルであった。東名を使うのが3に対して、新幹線が1の割合であった。
4時に起床し、5時に東京板橋区にある文部省の官舎を出発。板橋インターから首都高速を駆け抜けた。さすが、この時間はスイスイと走る。東名の入り口、用賀インターを40分ほどで通過できる。
 ヒロシは片道4時間弱の行程を眠らずに走り続けた。途中、一ヶ所ないし二ヶ所で休憩をとる。眠ってはいけないのでミュージックテープを聴きづけている。ユーミン、高橋真梨子、門あさ美などニューミュージック系のテープが多かった。なぜか、東名なのに、中央フリーウェイーである。ユーミンの曲はドライブをかなり意識して構成されており、ウキウキ走ることができる。
 ところが、静岡県の牧ノ原台地を過ぎた頃、どうしても我慢できなくなってくる。眠いし、音楽も飽きてくる。眠いときは、片手で顔をはたきたおし(倒れたらいけないのでもう片手で支え)、足をつまみ、痛いと言うのはいやだから優しくつまみ、起こすのであった。ヒロシは、ガムをかみつつ、曲に合わせて大声を発したりして睡魔と戦っていた。
 それでも我慢できないときは、サービスエリアに突入するのであった。何を我慢できないのか、音入れである。明け方なのでお腹がゴロゴロ言うのである。このお腹の中の雷と格闘しながら運転することほど、切羽詰まったものはなかった。冷や汗はでるは、眼が汗ばむは、足は震えるなど雷さんの過酷なしうちに耐えるヒロシがいた。しっかりと音を入れた後は、スキッと一発。さっきまでの地獄が嘘のように、さわやかな気分で車に乗り込むヒロシであった。
 浜名湖を過ぎるともうすぐ愛知県である。豊田インターまで一時間である。この豊田インターが曲者で、インターチェンジでぐるぐる回っていくうちに、ヒロシのGPSは壊れ、どちら方面に行くべきかが分からなくなってしまった。道路標識を見失うと、大学まで20分のはずが40分かかることもあった。
 刈谷の北部に位置する(別名刈谷市のチベットと言われていたそうだ)愛知教育大学に到着が8時30分である。
 9時10分の大学の1時間目の授業をするさわやかにヒロシがいた。


笑瀾万丈62 銀島文先生

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☆銀島文先生
 清里合宿のご縁で言えば、銀島文先生(現在、国立教育政策研究所)のことも付け加えておきたい。銀島先生は筑波大学に在籍中に筑波大学附属小学校に観察実習に来られた。たまたま私の学級に配属された。そのご縁で清里合宿にも同行することになりとても助かった。
 まさか、数学教育の分野でその後、仕事をご一緒することになるとは思わなかった。一番長く仕事をしたのは、文部科学省の第一回の全国学力・学習状況調査問題を作成したときである。私は主査(つまり委員長)を務めさせていただいた。依頼されてきたのは、吉川成夫調査官からの依頼であった。国立教育研究所に行ってみると、銀島先生がいたのでびっくりした。とにかく第一回であったので試行錯誤の中、協力委員と一緒に作ることができたのは懐かしいことであった。文科省に50回は通った。銀島先生の聡明な働きは今でも印象に残っている。


5月の教材研究 第1学年「いくつといくつ」を送信します。

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授業力アップわくわくクラブサロン会員のみなさま

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5月の教材研究 第1学年「いくつといくつ」を送信します。

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  授業力アップわくわくクラブ 近藤雅子

笑瀾万丈61 ☆関川さんとのご縁

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☆関川さんとのご縁

スナックラブで京野さんから関川さんを紹介された。関川さんとは12歳違う。一回り違う。材木屋さんの社長で可愛がってもらった。一昨年(平成23年)の八月に亡くなるまでお付き合いをさせていただいた。1六年間のお付き合いであった。
関川さんのすごいところは、毎回必ず飲み代をおごってくれた。私が支払うと言っても受け取らなかった。それを16年間、やり続けることのできる人のすごさに魅了させられた。若者の面倒もよくみた。例えば、30歳そこそこの人が串カツ屋を開業した。その意気込みを買って、そのお店に通って支援していた。
関川さんは、飲む時はほとんど何も食べない。夕食をとらない主義だった。お店の人がいつも心配していた。でも、本人は平気だった。
ビールのオンザロックを飲むのが好きだった。カラオケはうまかった。ラブではカラオケはできなかったので、他の店に行き、カラオケを楽しんだ。
関川さんと行く店は、若い女の子はいなかった。そんな遊びは終わっているという感じだった。どちらかと言えば、おばちゃまの世界であった。しかし、それらの店のママは情が厚い。
また、関川さんにいろんな質問をすると、そんな場合はこうすればいいよと教えてくれた。豪快でかっこいい生き方をしていた。職種が違っていても人生の生き方については大先輩である。だから、質問には即時に回答してくれる。
生き方でこんなことを教えてくれた。
バブルの頃、羽振りのよい材木屋があった。どんどん一人勝ちしていた。銀行との付き合いも良かった。ところが、バブルがはじけた後は、その会社は一気に吹っ飛んだ。生き残ったのは、みんなで助け合った会社だった。だから、自分の所だけいいという発想では、この社会は生き残れないのだと教えてくれた。
親父を22歳のときに亡くしたから、関川さんの存在は生きる指針として本当に役立った。亡くなる前に娘さんからメールがあり、急遽、上京し病院に駆けつけた。一時間ほど面談できた。それから二日後亡くなった。とにかくかっこいい生き方であった。
何のご縁かわからないが、関川さんの娘さんは愛知教育大学の近く、豊明市に住んでいる。娘さんによれば、お父さんとヒロシが飲んでばかりいた印象らしく、「飲んだくれのシミやん」と呼ばれている。

教訓:生き方に困ったとき、相談できる人がいること。これこそ生きた財  産である。



志水廣 1061 動画 親子で学ぶ算数教室94 「100をつくれ」


5月の教材研究 第2学年「たし算とひき算の筆算(1)」を送信します。

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5月の教材研究 第3学年「見方・考え方を深めよう」を送信します。

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笑波瀾万丈60「清里合宿」がご縁で

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☆「清里合宿」がご縁で

 筑波時代は、お勉強ばかりではなくて、楽しいこともあった。筑波大学附属小学校に赴任してから3年目の年であった。五月の清里合宿に副担任として同行したのが図工専科の京野一(はじめ)先生であった。
京野先生は、まじめな性格であるがかなりの変わり者であった。年齢は55歳くらいだった。東京教育大学の美術を専攻して附属小に赴任したらしい。芸術家で日展にも洋画部門で入賞をしたこともあった。絵は本当に上手だった。昼の掃除の時間は黙々と草取りをしていた。私の学級は図工の授業でお世話になっていた。彼の授業はほとんど見たことがなかった。子どもからは可もなく不可もないという先生であった。京野先生とは同じ官舎で同じ棟に住んでいた。彼は一階、私は五階であった。同僚からはかなり敬遠されていた。彼は怒るととんでもないことをするからである。例えば、職員の懇親会のチケットがあったが、気に入らないと懇親会の係の目の前で破り捨てたと言うことを聞いたことがある。私の前ではそのようなことはなかった。
なぜ京野先生と親しくなったかというと、清里合宿中にいろいろと打ち合わせをしたからである。なぜだか分からないが、京野先生に気に入られた。合宿が終わったその日に反省会をすることとなった。京野先生のスタイルは毎日作業服であった。駅のホームで寝ても平気という強者であった。毎週土曜日になると、銀座の画廊を回るのが楽しみであった。とにかく飲み助で、お酒のぬるかんをよく飲んでいた。マイペースで飲んでいた。

教訓:強者(つわもの)と付き合うと心の幅が広がる。

第7回 5月第3週「徹底的にできる授業をめざそう」

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こんにちは。
「ユニバーサルデザインに基づく学級経営」動画を配信します。
第7回 5月第3週「徹底的にできる授業をめざそう」
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笑瀾万丈59 スナックに通う不良中年

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スナックに通う不良中年

☆スナック「ラブ」
 ヒロシは、深夜12時すぎ、スナックで一人飲んでいた。
 今日の充実した日々を楽しむかのように、ご褒美にビールを2本ほど飲んでいた。
 お客さんは、経営者が多い。だから、教育の話題をすることもない。
お馴染みさん達なので気楽に飲める。
 スナックの名前は「ラブ」という。ママは里見さんであった。一人で飲み物や簡単な料理を手際よくこなしていた。とても気さくな人でどのお客さんからも可愛がられていた。
 ヒロシは、夜の算数研究会の後、上板橋駅を降りて自宅に帰る途中にスナックがあったので立ち寄った。
 人見知りのヒロシは、新規開拓の店探しはしない。ではなぜ、このお店を知ったのだろうか。
 清里合宿の打ち上げで図工専科の京野先生に連れて行ってもらったからである。
 36歳のときだった。
 京野先生と共に重い扉を開けた。薄暗い照明の中に一人の女性がいた。「いらっしゃいませ。」という声。
「どんな人だろう?」
 ヒロシは思いつつスタンドに腰掛けた。京野先生が「清里合宿の反省会をするので連れてきたよ。」という。
「はい、どうも〜。」という高い声。
 入ったときは夕方だったので一番のりであった。
 そのうち、あれよあれよという間にお客さんでいっぱいになった。と言っても10人くらいしか入れない広さであった。基本的にママはあまり干渉しない。ある時は将棋をさしても自由にさせてくれた。飲み物などを出すだけで精一杯なこともあるが、その人の雰囲気に合わせて接客してくれる。
 これにヒロシは、はまった。週に2回ほどではあるが、別の意味で忙しい日頃の癒しの空間となった。
 

志水廣 1057 5月のメッセージ 「自己の確立」 わくわくクラブ限定配信

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志水廣 1057 5月のメッセージ 「自己の確立」 わくわくクラブ限定配信

笑瀾万丈58 最大の成果は

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☆最大の成果は
 第一冊目の単行本の発刊は、私にとってとても大きな出来事であった。
 第一に、単著を出すことでとても自信がついた。これで附属小学校でやっていくことができると思った。手島先生からもなかなかやるなと言われた。
第二に、発刊そのものが、信用を付けた。よって、明治図書からも出版できる基盤となった。その意味でも啓林館には大いに感謝している。
『理数』誌の連載が実を結んだ。3年間の連載は志水の原稿という貯金が貯まり、そして、啓林館編集部からの信用をもたらした。つまり、何事も地道に信用を付けていくしかない。それが実を結んでいくことになる。

教訓:いきなり単著の本は作れない。数年間の貯金があってこそできるこ  とになる。何事も積み重ねである。

志水廣 1055 動画 親子で学ぶ算数教室92 面白い算数の問題 「同じだって」

志水廣 1055 動画 親子で学ぶ算数教室92 面白い算数の問題 「同じだって」

「前もって考えることの大切さ」を配信します。

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第2回 子どもの心を引きつける学級・学年経営動画
「前もって考えることの大切さ」を配信します。

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  授業力アップわくわくクラブ 近藤雅子

書籍紹介 算数授業のユニバーサルデザイン 目次

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はじめに
/志水 廣
Part1 しかけ1 「わかる」子どもがわかる授業を仕組もう
アイデア1 カードで授業の予定を知らせよう
アイデア2 1円玉の見える化と実感化から始めよう
アイデア3 長さや角を「なるほど」と実感させよう
アイデア4 1cm2を並べたり作図したりして面積を実感させよう
アイデア5 問題文は板書とノートに残そう
アイデア6 具体例を挙げて意味を確かめさせよう
アイデア7 拡大化して見える化・焦点化しよう
アイデア8 何を見える化するかを考えよう
アイデア9 見かけのズレを実感させよう
アイデア10 導入は手短に最小限にしよう
アイデア11 問題の意味理解のためにお話させよう
アイデア12 掲示でなるほどと納得させよう
アイデア13 対比の場面をつくろう
アイデア14 内容が2つある場合は分けよう
アイデア15 教えたいことを隠して提示しよう
アイデア16 定義の説明を問い直そう
アイデア17 定義と図をリンクさせよう
アイデア18 図に数字を入れて見える化をしよう
アイデア19 Whatの発問を使おう
アイデア20 子どもの発言を復唱しよう
アイデア21 復唱で「ずれ」を回避し聞く力を育てよう
アイデア22 教え合い後の発問で振り返りをさせよう
アイデア23 見える化が固定化にならないように気をつけよう
アイデア24 「わかる」授業になっているかチェックしよう
「わかる」授業づくり自己チェックシート
column ユニバーサルデザインを壊す方法1
Part2 しかけ2 「できる」「できる」ことの大切さを教えよう
アイデア25 「できる化」を意識しよう
アイデア26 「できる化」できる場面を探そう
アイデア27 解決方法,手順を明確化しよう
アイデア28 声に出して計算させよう
アイデア29 同一問題を解かせよう
アイデア30 類似問題を解かせよう
アイデア31 作業手順を明確にしよう
アイデア32 練習問題直前に効果的な言葉かけをしよう
アイデア33 答え合わせで安心感を与えよう
アイデア34 間違った問題は3回解かせよう
アイデア35 技能や考え方を定着させよう
アイデア36 算数用語の読み書きはしっかりしよう
アイデア37 算数語彙を増やそう
アイデア38 生活への活用は学校内で算数探しをしよう
アイデア39 できているかどうか確認をしよう
アイデア40 確実に見届けよう
アイデア41 なぞらせてみよう
column ユニバーサルデザインを壊す方法2
Part3 しかけ3 「そろえる」そろえて差を埋める環境&授業づくりをしよう
アイデア42 道具をそろえよう
アイデア43 音声計算で計算力をそろえよう
アイデア44 「そろえる」を意識して授業しよう
アイデア45 ミニテストでレディネスをそろえよう
アイデア46 「ヒント包含法」で見通しをそろえよう
アイデア47 自力解決をそろえよう
アイデア48 黒板の前に集めてヒントを出そう
アイデア49 「わかる」状態から「できる」状態にしよう
アイデア50 課題が終わった子どもにもしっかり対応しよう
アイデア51 進んだ子どもに対応しよう
アイデア52 進んだ子どもにはいろいろな見方で主体的に考えさせよう
column 身に付く 「どの子もできる10分間プリント」
Part4 しかけ4 「よりそう」子どもの立場で授業をデザインしよう
アイデア53 ポジティブな声かけで自信をつけさせよう
アイデア54 教科書の文末表現に着目しよう
アイデア55 「違い」と「同じ」を意識させよう
アイデア56 図と式の関係づけではWhere発問をしよう
アイデア57 既習事項でできることの限界を見せよう
アイデア58 板書を観察して振り返りをしよう
アイデア59 「ずれ」や「不正解」の子どもの立場に立とう
アイデア60 子どもの問いに耳を傾けよう
column 続・「どの子もできる10分間プリント」

笑瀾万丈57  突然の電話

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☆突然の電話
 夜、自宅にいたヒロシに電話がかかってきた。
「あの話(出版のこと)はどうなりましたか。」という。
啓林館「理数」誌担当の長野さんからだった。思いもかけない一言だった。
「実はね、M図書には断られました。現在、図書文化社にお願いして見当してもらっているところです。うまくいくかどうかは不明です。」と自信なく話した。
 すると、「では、私どもの方で出します。」
耳を疑った。私の聴力は確かなのか?確かだ。ほんとに言いましたよね。言いましたよ。長野さん、後戻りできませんよ。と心の中で叫んでいたヒロシであった。
またもや、♪ダダダ、ダーン。運命の一言。
 ♪あなたは稲妻のように、私の頭と心に響いた。
 神様、仏様、長野様。ありがたやありがたや。
 どうも、長野さんが上司の部長と相談して動いてくれていたようだった。
そこで、出版が決まった。
 本当に、人生は不可解なことが起きる。自分から頼んでもいないのに、配慮してくれていたのであった。今から思えば、宇宙貯金を3年間貯めていたおかげだったのであろう。
 この一冊で作家として華麗なるデビューを果たすのであった。
 半年がかりで全ての原稿を出し切り、二回の校正を経て、赴任四年目、37歳にして初めての一人で書いた本ができあがった。『教科書を活用した算数の授業』である。単著である。とても感慨深いものとなった。恩師の三輪辰郎(筑波大学)教授も推薦の言葉を添えてくださった。ありがたいことである。


笑瀾万丈56 処女作『教科書を活用した算数の授業』

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処女作『教科書を活用した算数の授業』

☆初めての単行本
 附属小学校に赴任して3年目。ヒロシは附属小学校にきた証しが欲しかった。なんとしても一冊の本くらいは出版したい。筑波大学附属小学校のネームバリユーの価値を確かめたかった。とはいえ、先輩の先生方に比較したら♪カモメはカモメ、いやヒヨコもヒヨコである。
 だから、筑波の志水廣の知名度はかなり低いと自覚していた。研究発表会をしても先輩の先生方の授業室には大勢の人が全国から駆けつけていた。それに比べて…。だからこそ一冊出したかった。
 3年目になると、啓林館発行の「理数」誌の連載原稿が3年間分たまっていた。算数の指導のポイントを連載したものである。ヒロシは、これらを何とかまとめたいという思いがつのった。
 そこで、出版社を探すことにした。初めから啓林館という頭はなかった。啓林館は教科書を作る会社であって、当時は教育書を出すことはまれであったからだ。ただし、記事をまとめ直すので、「理数」誌の担当の長野さんにはこの話はしておいた。他の出版社に頼んでみるからと。
 コンセプトは「教科書を活用した授業」である。出版社として数少ない知り合いの明治図書のSさんにお願いしてみた。Sさんは、「算数教育」という雑誌を編集されていた。ヒロシを応援してくれていた。ところが、Sさんには直接刊行する力はなく、上司の企画会議に出すことにした。この企画は没となった。当時は、教育技術の法則化運動と教材開発がブームであった。よって、教科書の活用というテーマ自体に魅力を感じなかったようだ。もちろん、ヒロシの知名度のなさも理由の一つだった。
 がっかりした時に、ちょうど思い出したのは、図書文化社のKさんである。(のちに社長になられている。)Kさんは親身になってヒロシの思いを受け止めてくださった。「分かりました。企画会議にかけてみます」ということだった。一ヶ月後に回答するということだった。企画会議がありその報告がくるときだった。

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