最新更新日:2024/12/23 | |
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76 笑乱万丈 単行本『数学大好き』さらに、毎月研究物がたまり、たくさんの数学の授業アイデアができあがってきたので、単行本を作ろうということになった。それが『数学大好き−わかる楽しい授業のアイデア70集』(明治図書)である。明治図書の樋口雅子部長にお願いして刊行することとなった。 教訓:小さい宝石も貯まれば大きな宝物となる。 『数学大好き』の書名は樋口部長がつけたものである。 端的に意図を表現していて感心した。 さて、単行本のための方針は次のように立てた。 ・中学校の一年から3年まで全てをカバーすること。 ・一つの題材は見開き2ページにまとめること。 ・領域にも配慮すること。 なぜ、このような方針を立てたかというと、中学校の数学教師の特性によるものである。短時間に面白いアイデアが読むことができるようにしたかったからである。しかも、学習指導要領にある内容を全てカバーすることによって、ハンドブックの形として使えるようにしたかった。 このあたりのノウハウは、『算数科教科書の活用法』に学ぶところが大きかった。 教訓:一人ではできない仕事もリーダーがいれば力を結集して、大きな仕事をやり遂げることができる。 75 笑乱万丈 研究会の経過はじめは三人がレポートを持ち寄って討議していた。 やがて、仲間が増えてきた。毎月定例の研究会をしていた。不思議なことに私の研究会はどこからも横やりが入らなかった。愛知には既存の組織もあり、新しいことをすると白い目で見られることが多い。 愛知県内で講演活動をしていた関係もあり、信用を得ていたからだと思われる。 そうこうするうちに、せっかく研究したことだから研究発表をしようということになり、夏の全国算数数学教育研究大会において研究発表した。群馬で研究発表したと記憶にある。また、その研究成果を愛知教育大学数学教育学会誌に研究発表した。 「数学探しの創造」というテーマであった。 波乱万丈74 中学校へ進出☆中学校へ進出 知立市のお好み焼き屋に3人の現場教師とヒロシが楽しく語っていた。 ヒロシは、率直に中学校の数学教師たちと勉強がしたいと話した。若い教師の3人は大いなる未来を語り合っていた。この会が将来の志水塾になろうとは想像もつかなかった。 ヒロシが愛知に来て3年目のことである。次の仕掛けを考えていた。小学校算数のことは分かってきたから、数学教育をやるためには中学校の数学を学ばなくてはならない。ついては、勉強会を開きたい。 志水塾は49歳のときに発足した。その元となったのが、中学校の数学教師の研究会である。 ヒロシはそれまでに知り合った中学校の数学教師を思い浮かべていた。 愛知教育大学数学科の大学院の修了生として鈴木正則先生、豊川の井上正英先生(岡崎の附属中)、名古屋の鈴木良隆先生(名古屋の附属中)の三人に呼びかけて研究会を作った。今でも思い出すのは、知立のお好み屋で打ち上げの相談をした。毎月、定例の勉強会を大学で行った。土曜日か日曜日の半日を研究会に当てていた。 なぜ、中学校の研究会かというと、私は小学校のことしか知らないので、中学校の数学のことも勉強したかったからである。しかも、愛知県では数学の免許をもっている小学校の教師が少なく、中学校の方に多く配置されていたからである。 教訓 お互いの長所に学ぶと、共生・共創できる。 73 笑乱万丈 リボン事件ヒロシは校長室で校長先生と対談していた。 突然、「どけっ!!」という大声が校長室に響き渡った。偉そうなかっこうをした人だ。 ヒロシには、この人物が誰だか分からない。 「何を言うか」と思ったが、ぐっとこらえた。 この瞬間、知り合いの指導主事に目配せしたが、無反応であった。 そこで、別テーブルにヒロシは移動した。 それならば、黙っておこうとしていた。 時間が過ぎていく。 どうもさっきのお方は教育長らしい。 ヒロシは、怒りを抑えて黙りを決め込んだ。 県の算数教育研究大会がこの学校であった。 ヒロシは講演講師として呼ばれたのであった。 その間、私のことを講師だと認知している指導主事は一つも動かなかった。 ヒロシは頭に来ていた。 いつ帰ってやろうかと。 リボンが配布された。小さい白いリボンが私の目の前に置かれた。それで、白いリボンを胸につけた。 15分ほどして、例のお方が口を開いた。 「そういえば、今日の講演の講師はまだ来ていないなあ」 校長室の人が「そうですね」と相づちをうった。 そこで、おもむろに小さな声で「私が講師なんですけれど…」と言った。 そしたら、突然慌てだした。 例のお偉いさんは、どうぞどうぞと言ってさきほどのソファーに案内してくれた。 そして、「先生、どうぞどうぞ、この大きな赤いリボンに替えてください。」と。 明らかに顔は怒っていた。 睨みつけてやった。これもまた、笑劇的な事件であった。 うっぷんをはらすかのように講演では、ヒロシパワーが爆発した。とてもうけた。 72笑乱万丈 学校訪問愛知教育大学に来て3年目くらいから現職教育の依頼が来るようになった。5年もすると、年間10校は面倒をみることになった。この他、いろいろな県の地区の算数数学研究会の講師として出張することが多くなった。現在までに、北は北海道から南は沖縄ので47都道府県のうち、訪問指導していない県は秋田県、山梨県、大分県の3県である。本当にたくさんの学校や研究会とかかわって指導してきた。 40代当初は問題解決型学習、40代後半から○付け法、意味付け復唱法などの志水メソッド。50代半ばから「愛で育てる授業」。50代後半からは学力アップ、最近はユニバーサルデザインである。 そんな中、笑瀾万丈にふさわしい事件を紹介してみよう。 授業力アップわくわくクラブの会員向けに「本当のこと」コーナーを設けて、動画を配信いたします。授業力アップわくわくクラブの会員向けに「本当のこと」コーナーを設けて、動画を配信いたします。 算数の理論と6400人の授業参観指導、100の著作を通じて得たことを述べていきます。 講演でも話せない内容を話していきます。 これを学べは確実に授業はうまくなります。 お楽しみに。 72 波乱万丈 〇つけとの出会い翌年のことであった。都築先生が三年生を担任し、授業診断することとなった。 授業の冒頭が衝撃的であった。13÷3のあまりのあるわり算を扱う授業であった。まず、黒板に12÷3を書いて復習した。これを都築先生は机間指導で子ども全員に○をつけられた。確かに本時の復習には12÷3は必要である。 ○つけ? 何をするのか? なぜ、○をするのか。 37人も子どもがいるのだから時間がかかるぞ。 飽きてしまうぞ。授業がだれてくるぞ。 こんな否定的な言葉が頭の中に次々と出てきた。 そんな私の心の声もおかまいなしに、都築先生は淡々と○つけをしている。しばらくして、ふっと子どもの表情が見えてきた。にこにこしている。どの子もにこにこしている。 もしかしたら、この方法はいいのかも・・・。 都築先生は、37人をわずか2分間もかからないで○つけをされた。私の指導観がぐらついた。都築先生に授業診断で質問した。 「どうして冒頭に○つけをされたのですか。」 「私は、どの子もわかる・できてほしいのです。みんなの学びをそろえたいので復習して確かめたいのです。だから、○つけします。」 なるほどと思った。 志水廣 1072 動画 6年 6月の教材研究 「分数×分数 : 逆数」限定配信
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笑乱万丈71☆羽根小学校の現職教育羽根小学校から依頼があり、学校の授業相談にのることになった。はじめはA校長先生だった。次の校長が杉浦正明校長先生だった。学校規模は学年4クラスほどであった。まだ三河の地理に慣れていなく、名鉄の東岡崎の駅へ迎えに来てくれた。年に二回の訪問であった。 さて、二年目のことだと思うが、5年生のT先生の授業を参観した。授業診断のときは、校長室でT先生と直接対面した。その冒頭に、T先生は、「どうせ下手ですもの。」であった。この一撃には参った。当時の私はまだ40代、眼光が鋭かった。だから、このようなひと言がT先生から出てきたのだと思う。そこで、「そうだね。あなたは下手ですね」と言うわけにはいかない。ボールペンの黒と赤で書かれたノートをぱたりと閉じて、「そんなことはないよ。こういう工夫をされていましたよ」と10個ぐらい事例をあげて述べていった。その事例でT先生は心を開かれた。そのとき、どんなアドバイスをしたかは覚えていない。教師の自尊感情は、いつも不満足なのかもしれない。 教訓:「どうせ…」のひと言に対するには、全面肯定しかない。 なぜ、このようなドラマを書くのかというと、このT先生が○付け法の発端であったからである。T先生とは、都築民子先生である。ベテランの先生である。 70波乱万丈 岡崎市立羽根小学校笑瀾万丈劇70 ○付け法との出会い ☆赴任当時の学校訪問 豊田市立高嶺小学校の次に、岡崎市立羽根小学校と出会う。 岡崎市算数数学部との出会いは、41歳のときである。当時、土曜日に授業があった関係で土曜日の午後に研究会があり、そこでは、大学の先生に示範授業をしてもらう企画であった。そこから岡崎市とはご縁ができた。体育館で示範授業をした記憶がある。そのときのエピソード記憶に、研究会のお世話をしていた太田恭子先生(現、岡崎市立連尺小学校長)がいる。 「本物教育のすすめ」月刊 『船井人間学と教育の未来像』
『船井人間学と教育の未来像』月刊「本物教育のすすめ」pp25-48
69 仕掛け1 小学校の顧問学校づくり☆どこかにないか? ヒロシは一つの仕掛けを考えていた。愛知県の現場との接点である。特に、現場の実践が見たいと思うようになっていた。ところが、愛知には知り合いの先生がいない。そこで、ヒロシは考えた。 そうだ。啓林館のSさんにお願いしよう。 Sさんは、ヒロシが赴任したときに挨拶に来てくれた。あの人なら大丈夫かもと思った。電話で算数の授業を見せてくれる学校はないかと依頼した。半年してようやく見つかった。豊田市のN小学校だという。ここならば、校長先生は算数なので授業参観できるかもしれませんとSさんは返答した。 Sさんの車に乗り、N小学校を訪問した。そこで、S校長先生にご挨拶した。その学校の授業を参観した。ところが、N小学校以外の二人の先生がなぜかその場にいた。授業参観後、授業者にアドバイスした。アドバイス後、例の二人の教師がぜひとも私の学校に来てほしいという。このときのお一人が和田裕枝先生(元、豊田市立小清水小学校長)であった。 どうも、私の指導の様子を偵察にきていたようだ。それで、間違いないと思われて、ヒロシをスカウトした。つまり、ヒロシは和田先生に見込まれたのであった。そして、授業参観後、和田先生の所属の豊田市立高嶺小学校を直行することとなった。 こんなこともあるのだと和田先生の車の中で思っていた。ヒロシがスカウトしたのではなくて、ヒロシはスカウトされたのであった。 そこから高嶺小学校との長い長いお付き合いが始まったのであった。その後、鈴木由里子先生、落合康子先生が高嶺小学校に来られて現職教育を充実させていくこととなった。現在でもこの三人とはお付き合いがある。出会いはとても不思議なことだと思う。 紹介された学校とはご縁がなくて、全く知らない学校と縁がつながることとなった。高嶺小学校とは普段着の授業の中で学力アップになるような研究を続けてきた。本読み計算 も仕掛け1は不思議なご縁のおかげで大成功であった。 笑乱万丈68 新たなる出発皆さんは、筑波大学附属小学校を経てから愛知教育大学の助教授になるのだから、その後は順調に推移したと思われるだろう。それは違う。大学に赴任してから22年間になるが、絶えず仕掛けてきたのである。新しい任地に赴くということは、全くの無名から始まるということである。愛知での地盤、地縁はゼロの世界である。だからこそ、人と人とのつながりを求めて動いてきたのである。 赴任当初、講演依頼はほとんどなかった。千葉の八千代市に呼ばれたくらいであった。長野県の木曽地方との縁は大学に赴任したときに始まった。後は、青森県との縁で十和田の地区に講演に行った。 だから、一つ一つの仕事を丁寧に努めたのである。そこで、大学の先生としての信頼を得ていったのである。40歳から42歳くらいまでは講演の数は少なかったが愛知県内での講演は、教科書会社の啓林館を通して県内に講演で出掛けるようになった。一つ一つの学校や地域におもむき、愛知での地盤を築くのに、10年はかかったが「日本数学教育学会 全国大会」へと結びつくこととなった。 教訓:地盤は自分でつくるものであり、反面、紹介してくださる縁のつな がりでもある。 「ユニバーサルデザインに基づく学級経営」動画を配信します。こんにちは。 「ユニバーサルデザインに基づく学級経営」動画を配信します。 第9回 5月第5週「過剰適応の子に注意しよう」 どうぞご覧ください。 授業力アップわくわくクラブ 近藤雅子 笑乱万丈67 長女の事件大学に赴任して半年後、平成5年四月に家族は東京から引っ越してきた。そこから落ち着いて授業ができるようになった。 奥さんは、車の免許をとって買い物に行くようになった。 すでに住んでいた愛知教育大学の官舎に入った。長男は中学校3年、長女は中学校一年で入学した。富士松中学校であった。東京からの転入生ということで、ずいぶんと珍しがられたそうだ。これが、東京の学生服かと。そんなもの同じに決まっているのに。 入学したてのあるとき、長女が私に「今日、数学のテストがあって、難しいなあと思って表紙を見たら、筑波大学附属小学校 志水廣と書いてあったよ。」「こんな難しい問題を私にやらせるなんて…」このような抗議を受けた。どうもNRTのテストだったようだ。当時、私が六年生のNRTの問題作成にかかわっていた。それが娘にヒットしたらしい。自分の子ども達には、ほとんど勉強を教えたことがなかった。NRTのテストは自宅にあったので紹介したらよかったかなと親心で思ったが後の祭りで、娘には、難しい数学のテストで父親にいじめられたという記憶が残った。 教訓:思わぬところで娘と父の対面あり。 第8回 5月第4週「発達障害の子の「困った行動」への対処」こんにちは。 「ユニバーサルデザインに基づく学級経営」動画を配信します。 第8回 5月第4週「発達障害の子の「困った行動」への対処」 どうぞご覧ください。 授業力アップわくわくクラブ 近藤雅子 第7回 5月第3週「徹底的にできる授業をめざそう」限定配信こんにちは。 「ユニバーサルデザインに基づく学級経営」動画を配信します。 第7回 5月第3週「徹底的にできる授業をめざそう」 どうぞご覧ください。 授業力アップわくわくクラブ 近藤雅子 笑乱万丈66 ☆大学の授業づくり愛知教育大学に赴任した。当面の仕事は大学の講義ノートづくりである。算数科教育法と算数科研究の授業があった。この主な違いは、教育法は指導法にかかわるものであり、算数科研究は算数科の内容の教材研究である。しかるに、この指導法というのが心許ない。当時の、大学の教員はあまりよくわかっていなかった。20年前のことだから、今はどうなのかよくわからないが当時の教員は、算数科教育法の授業で教材研究の内容を解説し、算数科研究の方で数学的な知識を教えていた。算数科研究を教える人は数学者なので現場のことがわからない。ただし数学のことはわかるので、それを教えるといった担当教員の都合からくるものであった。 私は、それを打破したいと思い、算数科教育法では教え方について講義した。初期のテキストは、「教科書を活用した算数の授業」(啓林館)であり、その後は、「算数科授業づくりのマニュアル」(明治図書)を採用して指導法の解説をした。 学生にとっては、私のような実践家の授業はとても新鮮であったようだ。授業で起こる教師と子どもとのドラマを指導事例をもとに話していった。毎回、講演をやっているようなもので、半期6ヶ月の講義を15回実施するなかで体系的に述べていくには労力を要した。 教訓:教える対象が変われば、教材研究するのは当然のことである。 笑瀾万丈65 ☆奇跡というしかない後から話を伺うと人事とは全く不思議なつながりである。私は根本博先生の後任に当たる。根本先生は、北海道教育大学から愛知教育大学に移籍されて、二、三年在籍された。根本先生はその後、文部省の中学校の教科調査官になられて転出した。私は、その後任人事に当たる。人事はいろいろ紆余曲折したあと、実践畑の教官を採ろうとなったと聞く。そこで、私をはじめ数人に声が掛けられたれた。 当時、附属小学校の算数部は、滝、正木、志水、田中、夏坂の五人であった。手島先生は前年くらいに上越教育大学に転出されていた。私に声を掛けられたということは上の人から見れば意外だったと思う。「なぜ、志水に声が掛かったのか?」 それは、愛知教育大学側からの条件がそうだったからである。40歳前後でなおかつ修士をでているという条件であった。だから、その条件に合致したのが私であった。でも、先輩からすれば不満だったと思う。 後日聞いた話によれば、私は大学院を修了していた。ここが大きい実績であった。しかも、業績に関しては、学会の論文、著書、雑誌の原稿等かなりの分量であった。だから、公募者の中では圧倒的な優位にあった。だから、うまく大学の教員として合格となった。国立大学の場合、業績審査はかなり厳しい。事前の審査、選考委員会の審査、そして教授会の投票をもって決められる。ある人は、教授会の投票のときにもめて駄目になったことがあった。そんなこともあって、私はなんとラッキーなことだと思った。 大学院に行くときの様々な妨害、いじめは筑波大学附属小学校や愛知教育大学の教員になって、報われた。それにしても28歳のとき、なぜかしら大学院に行きたいという魂の声を無視できなかった。普段は大人しい私だが、どうしても行きたいと思ったのである。我を通したのである。人は、この世に生まれた使命をもっている。この使命は長い人生行路の中でわき起こってくるものである。 教訓:魂の声を無視できない。魂の声に従って生きることができれば、艱 難辛苦があっても結果的には魂が喜びとなる。 志水廣 1064 親子で学ぶ算数教室98 「□と△はいくつ」 |
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