最新更新日:2024/12/23 | |
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こまった時が困ったときは、困ったんだね。 だから、どうしようかと考える。 そして、打開策を見つけようと行動する。 すると、何かしらの出会いがある。 これがかなりの効果をもたらす。 笑瀾万丈46 16時からここから会議がスタートする。教官会議(職員会議のこと)、部会会議などがある。 教官会議は月に二回、月曜日にあった。これはエンドレスである。早ければ18時30分には終わった。しかし、21時すぎまで続くこともあった。気楽だったのは、附属小学校には組合組織がなかったことである。だから、分会会議などはいっさいなかった。組合員もいなかった。附属中学校と高校には組合員はいたようだ。 笑瀾万丈45 教科担任制朝のマラソンの後、教室に入り、一時間目が始まる。そこで、自分の学級で授業または、別の学級で授業をすることになる。 筑波大学附属小学校は、半分教科担任制である。(正確に言えば、27年前の話なので過去形であるが) 赴任当時は、四年生の担任で、国語5時間、算数4時間、道徳1時間、総合4時間を受け持った。そして、他の学年のある学級の算数4時間を受け持った。確か二年生だったような気がする。社会科、理科、体育科、音楽は専科であった。だから、合計18時間であった。六年生の担任のときは、国語も専科の先生にまかせたので、算数は自分の学級と他の学級を2学級受け持った。これはこれで、大変で、算数の授業を四年生、一年生、六年生と受け持ち、一週間のうちに、これらの教材研究と教材の準備をこなすのは容易ではなかった。あるときは、六年生の算数を受け持ち、終わったら、次の時間が一年生で言葉使い、態度さえも変身する必要があった。教室移動のときに、人格を変えるのである。 六年生にはびしばし指示していたのが、「さあ、みんなわかるかな」と丁寧な言葉でやさしいお兄さんの演出である。お兄さんは言いすぎで、おじさんを演出した。 授業参観のときも他の学級で授業参観する場合も当然でてくる。見せるのが堂々としていないと親からの評価もきびしい。 一コマの時間は、40分間であった。40分間でやりきらなくてはならない。他の学級に算数を教えに行くと、宿題まで含めてやりきらなくてはならない。確かに附属の子どもの学力は高いのであるが、それでも二年生のかけ算九九を覚えようとしない子どももいるわけで、担任に任せるわけにはいかないので、説得することを覚えた。 4時間の授業が終わり、自分の教室に戻り、給食であった。これが値段のわりに内容がよくない。国立なので、都立のように補助がでていなので、自校給食にもかかわらず、質素であった。赴任当時は神戸市の給食と比較していた。 昼食は、子ども達の楽しいひとときである。あの子達は、一年生から学級編成替えがなしだから、とにかくツウカーの仲である。いろいろなトラブルは当然あるが、そのうち収まった。 この後、昼休みになる。このとき、大抵の場合は、算数部室に行き算数部の教官(文部教官と言った)と交流する。お茶を入れるのは、新任の私の役割である。おやつの買い出しにも行く。 お昼休みが終わり、全校清掃となる。異学年の交流の場である。 13時30分くらいから、5校時が始まり、15時すぎに6校時が終わる。終わりの会をやって子ども達は下校となる。ただし、一週間に一度、居残りがある。それは何かというと、運動の居残りである。サッカーやベースボールなどをやる。子ども達は都内の広範囲から来ているので、下校してしまうと、一緒に遊ぶ場がない。だから、15時すぎから16時まで、目一杯運動している。そのとき、私はその監督をしている。 第4回 4月第4週「 1学期の教材研究のポイント」限定配信こんにちは。 「ユニバーサルデザインに基づく学級経営」動画を配信します。 第4回 4月第4週「 1学期の教材研究のポイント」 どうぞご覧ください。 授業力アップわくわくクラブ 近藤雅子 笑瀾万丈44 出勤時の様子☆事務室から 学校に出勤すると、まずは事務室で出勤の印を押す。事務室の存在は、当時の神戸市の小学校にはなかった。さすが国立は違うなあと思った。 その後、教官室に行く。誰もいない。 不思議な光景である。がらんどうである。ヒロシはまずこの風景に戸惑った。 ♪今は〜、もう朝(秋)。だれもいない教官室(海)。知らん顔はしないが。廊下を教職員が通り過ぎていく。 何だか変なの。校長先生、教頭先生、教職員。誰もいない。どこに失踪したのか。行方不明である。冗談ですよ。学校内には、いるんです。各教科の部屋に。 すると、教官室の黒板に本日の予定が書き込まれている。例えば、避難訓練と板書されている。教官室にはヒロシの机はない。教官室とは名ばかり単なる会議室である。だから、職員全員と顔を合わせることはない。郵便物をチェックした後、本館の三階の算数部の部屋に向かう。ここにヒロシの机があった。算数部の部屋は、教室の2/3の広さがあるが天井が高いので中二階の部分が作られていた。現在は改築の時に消滅した。 上に述べたが、一番驚いたのは職員室がなかったことである。また、職員朝集、終会がなかった。だから、一日いても他の学年の教官と出会わなくても過ごせるのだった。全員が会うのは、二週間に一度の教官会議であった。または、毎週火曜日の講堂での朝会であった。だから、教室には電話があり、これで教官どうしは連絡を取り合っていた。 算数部室で着替えて、ヒロシのクラス一部四年に向かう。子ども達に挨拶して、8時10分には運動場に出て、ドッジボールが始まるのであった。全学年児童960名が二つの運動場に分かれてドッジボールを楽しむのであった。このとき、初めて学年の四人の担任と出会い、連絡事項があれば簡単な打ち合わせをする。運動場での学年会議、これこそ明るい空の下で行うオープン会議であった。なぜ、運動場かというと、教官室には机がないから、学年の教官が集まる場所がなかったからである。 その後、マラソン開始である。一年中、ドッジボールとマラソンである。ヒロシは耐寒マラソンは経験はあるが毎日マラソンは経験はない。だから、四年生の子ども達についていくことができない。占春園という公園をハアハアいって走るヒロシがいた。一時間目の授業では、動悸息切れの解消から始まった。知力よりも体力がいる学校だと思った。 子ども達は、体力がつく。勉強の前にまずは体力優先であった。 はじめの頃は、神戸の頃と全く違う動きなので戸惑ったが、二ヶ月もすればすっかり慣れた。 笑瀾万丈43 通勤の様子☆がらっと変わる生活 ヒロシは、筑波大学附属小学校に通勤し始めた。 朝、六時二十分には起床して、七時すぎには自宅を出て、小学校には七時四十五分くらいについた。神戸の頃は車で八分の所だったから、八時に出ても余裕だったのに、七時に出るのはちょっと辛かった。でも緊張しているヒロシは希望に胸が膨らんでいた。一体何が始まるというのだろう。 初めのうちは車での通勤は慣れない道路だから、また渋滞でどれだけかかるか予想もつかないので、電車通勤を選んだ。 官舎のミニ団地から東武東上線上板橋駅までは徒歩で十分間であった。神戸の頃は団地は緑に囲まれた環境で、通勤途中もとても綺麗な景色であった。つまり、郊外だったということ。ところが、東京の官舎内は緑があるのだが、官舎を一歩出ると都会の下町で、あまり綺麗とは言えない景色であった。特に通勤路は裏側の道だったので、あまりの落差にがっかりした。この景色に慣れるのに少し時間を要した。奥さんもこの光景には少なからずいや大いに不満を感じていた。 東上線で池袋駅に出て、すぐ地下に降りるとそこは丸の内線であった。人、人、人の多さであった。とにかく人が多い。ただし、ヒロシは意外な光景を発見した。それは、整然と並んで待つ人々であった。電車も次から次へと来る。まさにラッシュアワーであった。列は乱れてもよさそうなのに、整然としたいた。この整然さは東京人の行儀のよさである。ヒロシは関西の頃をふと思い浮かべた。電車が来るまでは整然と並んでいるのだが、電車が止まった瞬間、列が乱れ、我先にと入る人が多かった。機動隊の突入ではあるまいに、我先にと電車に飛び込んでいた。まさに、陸上でのダイビングである。だから、列などはあまり意味がなかった。それと比較して、この東京人の整然とした姿はとても美しかった。現代の江戸仕草の再現といってもよいだろう。こんなことを感じるヒロシであった。 丸の内線の混みようは半端ではない。ほんの少しの隙間でも後から後から押し込んで来る。気合いがいった。 気合いと礼儀正しさを共存する東京人にヒロシもなっていった。 突然パソコンでYou Tubeの動画を見た。どうも音量が小さい。 パソコンのボリュームをあげても小さい。 スピーカーをいくつか変えても小さい。 なぜなのか。 音楽だけのファイルを開いてみた。 こちらの音量は、大きい。 You Tubeたせけが小さい。 あれれ不思議だ。 ある瞬間、わかった。 You Tubeにも゜ボリュームがあった。そこが小さくなっていたのだった。 これで解決した。 論理的に考えれば、音楽ファイルは大きく、You Tubeだけが小さいのだから、You Tubeに関係することは推測できた。ただし、You Tubeにもボリュームがあることを認識できなかったのだった、 この大騒ぎをしていると、秘書の近藤のパソコンの音量が大きく改善された。 1つのトラブルで2つのトラブルが解消できた。めでたしめでたし。 笑瀾万丈42 一部四年の担任四月四日に筑波大学附属小学校に出勤し、転勤の挨拶をした。今度来るのは、大学院出だとうわさになっていたらしい。そんなことも知らず新しい職場に慣れるのに必死だった。 四年生の担任になった。四年一組、附属の名称で言えば、一部四年である。この子ども達との出会いはびっくりであった。ともかく活動的である。お坊ちゃま、お嬢様をイメージしていたが、全く違った。元気いっぱいである。 当時、附属小学校は一年生から六年生までクラス替えはなかった。つまり、六年間一緒の学級編成である。担任だけが、四年生から替わることになっていた。前担任は平松主任である。理科の先生である。この平松先生が子ども達をのびのびと育てていたので、自由な雰囲気であった。もっと言えば、野性味に溢れていた。 例えば、四月の終わりに秩父の山奥に遠足に行った。登山して、駅まで降りてきた。すると、特急電車出発まで一時間近く待つ必要があった。駅の近くに秩父の川が流れていた。そして、子ども達はその川で泳いでもいいかと聞いてきた。きれいな水だったので、泳ぎ始めた。四年生男子ならまだ分かるが、女子までが服を脱いで泳ぎ始めた。山奥の水だから、かなり冷たい。にもかかわらず平気である。しばらくすると、東京の公立小学校も川にやってきた。呆然とその子ども達は、附属小学校の子ども達の泳ぎを見るばかりである。 平松主任によると、おぼれなければいいから注意しなさいという。全くもってびっくりを通り越してたまげた世界であった。 教訓:人は、イメージのギャップに驚く。その落差を埋めようと動く。 必要・必然、ベスト船井幸雄の人間学として「必要・必然、ベスト」の法則がある。 これを裏返すと、その人にとって必要でないときに貴重な情報がやってきても、 その情報はスルーしてしまうということである。もったいないけれどそれが現実である。 笑瀾万丈41 いざ 東京へ☆新神戸駅にて 四月の初めの朝、午前10時35分、新幹線の新神戸駅にのぞみ号が入ってきた。 奥さん、長男、長女と四人でのぞみ号に乗り込んだ。二人掛けのシートを回転させて四人が向き合った。見送りに母親と弟がいた。 四人は、これから始まる未知のドラマに期待と不安を抱きながら、見送られていた。 静かにのぞみ号は発車した。 故郷を離れるということは、…。感慨深いものがあった。 五歳と七歳の子ども達は静かに本を読んでいた。景色も楽しんでいた。 ところが。ヒロシは、何と仕事をしていたのであった。 何かの算数の原稿を頼まれていて作っていたのであった。 今振り返ると、あの時から移動の中でも仕事づけになることが始まっていたのであった。 笑瀾万丈40 突然の事故話は前後するが、多聞台小の二年目の11月のことだったと思う。つまり、附属小学校への転勤の話が決まった後のことである。 通勤の帰路で、交通事故にあった。小学校から自宅へ帰る道で交通事故にあった。道路は右にカーブしていた。だから、自然に車もカーブしたら、向こうから軽のワゴン車が突っ込んできた。そこで、私の軽自動車と正面衝突した。私はむち打ちになった。数ヶ月の治療を要したが、相手は入院した。これには参った。対人事故なので、心は痛んだ。本来は、カーブの道は一端停止線が引かれているべきであった。それがなかったのである。だから、直進優先だと言われたが、こちらの方が広い幅で、センターラインがカーブしていたのでそのまま走っただけなのに、ぶつかった。納得がいかないが、でも私の方の不注意だと言われた。しばらくしたら、一端停止のラインが引かれた。とはいえ、反省した。転勤が決まり気持ちが浮ついていたのだと思う。 幸いにも、相手側のけがも入院治療を無事に終わった。お見舞いにも行った。大きなことにならずに済んだ。 教訓:良いことがあると、ウキウキするのは当然だか、舞い上がりすぎると、宇宙からの警告がくる。慎重に行動したい。 笑瀾万丈39 附属小学校への異動決定附属小学校への異動が決まった。未来への希望が出てきた。大学院から神戸市の小学校に戻ったとき、未来は全く見えなかった。 くさらずにこつこつと仕事や研究をしていたら、突然人事の話がわき起こり、そこからトントン拍子に進んだ。 教訓:未来への希望が見えたとき、一段とやる気になる。 教訓: 一つステップアップすると、それに付随して新しい仕事、役割が 舞い込んでくる。ステップアップが信用につながる。 時間に余裕をもつこと忙しい人はいつも忙しいといってすごす。 忙しくてもすきま時間を作り、その隙間時間を有効に使う。 時間に余裕がないと、チャンスに出会わないし、チャンスが来てもそのチャンスを生かせない。 なぜなら、人が合いたいというお誘いにのることができないからである。 笑瀾万丈38 教科書の著者にジャンプ☆離れる挨拶 ヒロシは、この瞬間を待っていた。 舞台は教科書会社である。多聞台小学校の二年目のときに、ある方から教科書の啓林館から算数の研究をするので参加してくださいませんかと依頼を受けた。問題解決についての研究会であった。大須賀康宏先生(当時は奈良女大学附属小学校だったと思う。その後愛知教育大学の教授)が研究の指揮をとっておられた。ヒロシの大学院時代に「問題解決」が数学教育の研究で流行っていた。その続きだった。 二月の末に研究会がありこれで最後だった。 いよいよ終わりになるとき、発言した。 「皆さん、どうもありがとうございました。私事ですが、四月より筑波大学附属小学校に異動します。東京に行きます。よって、この研究会には出られません。申し訳ありません。驚いた雰囲気だった。当時、研究会に出席していたT課長はびっくりしていた。 ヒロシとしてはけじめとして発言しただけだった。 するとどうだろう。一週間して、営業の方からぜひとも会ってほしいという。 わざわざ多聞台小学校まで夕方、編集部課長のTさんとと営業部課長のKさんがやってきて、ぜひとも啓林館の著者として入ってほしいということだった。とてもありがたいことだと思った。 筑波大学附属小学校のネームバリューのすごさをあらためて感じた。 神戸市の一教員のままだったら教科書の著者の話はあったかどうかは不明である。 だから、奥さんが言うには「名誉はお金で買えませんよ」の力を見せつけられた。 誠にありがたい話であり、まだ附属教官になっていない段階で決まった話であった。ヒロシとしては地元神戸市は長年啓林館の算数教科書を採用していること、また恩師の三輪辰郎先生は中学校の教科書では啓林館の著者であることから啓林館に入ることは自然な選択であった。 附属小学校に入ると先輩の手島勝朗先生が啓林館の著者でもあったので導いていただいた。例えば、手島先生は、三輪先生、ヒロシの前任者である窪田先生との会食を計画されて仁義をきった。三輪先生と窪田先生は同じ東京教育大学数学科なので旧知の間柄であった。 実際、附属小学校に入ってから先輩を通じて別の教科書に誘われたことがある。ありがたい話ではあるが、しかし、私の気持ちは決まっていたのでゆるがなかった。 世間知らずのヒロシは、こうやって先輩や恩師によって一つずつ人生の生き方を知っていくのであった。 33歳で啓林館にかかわることになり、教科書の執筆を通して、たくさんの著者や編集部の方々とかかわって、算数教育の奥深さを学ぶことになった。啓林館の編集の特徴は、単に意見を言うだけではなく、実際に原稿に文字とイラストを埋めて、提案原稿とすることであった。教科書を作成するのに普通で、三年間の月日がかかり、算数の系統性の観点、児童の理解の観点、現在及び今後の算数教育の動向、文部科学省の考えを調和させての作業となる。現在63歳であるが、30年間もよくも続けてこられたものだとヒロシは思った。 また、各地の先生方とも出会い、研究会、講演及び示範授業を通してさらに厚みのあるものとなった。感謝に堪えない。 第3回 4月第3週「音読指導のバリエーションをもとう 」限定配信こんにちは。 「ユニバーサルデザインに基づく学級経営」動画を配信します。 第3回 4月第3週「音読指導のバリエーションをもとう 」 どうぞご覧ください。 授業力アップわくわくクラブ 近藤雅子 志水廣主宰 授業力アップわくわくクラブ春道場 4月20日(土)笑瀾万丈37 ☆当時の附属小学校の人事の基本ここで、筑波大学附属小学校の人事について述べておく。附属小学校の人事は退職される人の郷里から選出するというのがルールである。愛知教育大学のように、附属学校の教員は、愛知県・名古屋市との交流人事ではない。赴任すれば、以前の地域は退職となる。だから、まさに、行き場がない世界である。33歳で赴任して、60歳まで勤めあげるというのが基本である。だからこそ、打ち込んで学ぶことができる。自分なりの指導理論を組み立てるには、少なくとも五年くらい腰を落ち着けてやる必要がある。 ところで、筑波大学附属小学校の教官には、神戸市出身の人はいなかった。だから、普通は、この人事はありえないことである。実は、私の前任者のK先生が途中退職されたのである。Kさんは、東京教育大学出身であった。つまり、後の筑波大学である。だから、Kさんの後任は、筑波大学にお願いしようということになった。そのため、恩師の三輪先生のところに依頼がきたというわけである。三輪先生は、大阪教育大学のときの恩師である。それが、私が大学院に通う頃には、筑波大学の教授として栄転されていた。三輪先生としても、誰を推薦しようかと迷ったはずである。まさに私はついている。 大阪教育大学の頃、卒論の指導教官として三輪先生にお願いし、兵庫教育大学大学院の頃には、佐々木先生にお願いした。その当時、筑波大学附属小学校の存在もまた赴任の話も全くおこっていなかった。だから、偶然×偶然くらいの確率である。 私がついていた原因を振り返ってみよう。 何がよかったのかというと、教えてもらう指導教員は自分が選択したこと、それゆえにたくさん学ばせていただいた。それが結果的によかった。勉強は大好きであった。一生懸命やったのである。ゼミ仲間の中でもがんばった。もう一歩先を踏み込んでいた。つまり、どういう場面でも一生懸命やっていた。それが評価されたのだと思う。決して出し惜しみはしなかった。 教訓:どういう場面でも一生懸命やることである。それを誰かが見ている。 教訓:マイナスだと思っていたのが、後から、プラスの配慮だったという ことがある。宇宙の配慮であろう。 みんななかよく?みんな仲良くとは言うけれど、そんなことあるのかな。 無理に仲良くしなくてもいいんだよ。 仲良いい人だけでいいの。 そんな人がいなければ、自分が自分と仲良くすればいいだけのこと。 笑瀾万丈36 その日の夜のこと電話がかかってきた。 「ああ、Kだけど。」 一瞬誰のことか分からなかった。だって、それほど親しく親戚づきあいはしていないのだから。奥さんのことは知っているが、旦那さんとは、一度会ったきりだったから。 やっと思い出した。 「はい、Kさんですね。」と返事をした。 すると、突然、「東京へ行きたいのか」と質問された。 ええっ??なんで知っているのか。校長先生だけに話したはずなのに。 と思ったが、「はい、行きたいです。」と答えた。 すると、「分かった。」 と言って電話は切られた。 きつねにつままれたようだった。 ヒロシの頭に、Kさん?東京? こういう疑問にさいなまれながら、ぐっすり寝た。 翌日、校長先生に挨拶に行った。「あのう、Kさんから電話があったんですが…」 「ああそうか。なんで、Kさんから…」というと。 「ああ、Kさんは神戸市教育委員会教職員課の人事の主幹だよという」 「はあ〜。そうだったんですか。」 またもやびっくりであった。 ヒロシの親戚に教育委員会の人事担当の親戚がいるなんて、全くもって知らなかった。おおぼけもいいところである。後日、偶然お会いしたとき尋ねてみた。「私が兵庫教育大学大学院に行ったことも知っていたのですか」 「ああ、知っていたよ」 この一言に、ヒロシは救われた。大学院に行くときの境遇、そして、大学院修了後の動きをじっと見守ってくれている親戚がいたということに感謝した。 この後、どういう動きがあったのかは知らない。 筑波大学附属小学校と神戸市教育委員会、兵庫県教育委員会との間でスムーズに人事の話はまとまっていった。 うまく行くときは行くものだとヒロシは不思議な感覚を覚えていた。 なぜ、三輪先生からのお誘いが。なぜ、Kさんからの電話が。…などと考えていくと、人生は連鎖の固まりである。 未知の世界へ飛び込むことになるが、この先神戸でどうなるかが見えない世界だから、ここで決断するのも良いと考えた。神戸では、またもやいじめられもかもしれないし、悶々とするかもしれない。 常時ウェルビーイング常時、ウェルビーイングでいたい。 常時とは、一瞬一瞬が幸せということ。 一瞬と数学的に言えば点。常時とは点の連続であること。つまり、直線である。 とはいえ、人は感情の生き物だから、+と−の出来事がやってくる。 だから、+や−の出来事に対して常に絶対値で生きると+の世界となる。 |
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