最新更新日:2024/11/09 | |
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南風あったかげん記−577−
☆★☆ 社会科こぼれ話−30− ☆★☆
駅名が出たついでにもう一つ。東京メトロの「三越前」という駅名に違和感を感じませんか? バス停ならともかく、鉄道の駅名に企業名が付くというのはなぜ?すごく宣伝になりますね。 調べてみました。この駅は、直通出入口を設けること等を条件に、建設資金を三越が全額負担したのです。当時資金難だった東京地下鉄道としてはありがたい話で、駅名も「三越前」になりました。 銀座線ホームの壁面には、三越の「三」をモチーフにした赤い3本線が引かれ、日本初の駅エスカレータが備えられるなど、異例に豪華な内装が施されたそうです。 この結果、三越はさらに賑わい、大当たりだったそうです。他にも、東京地下鉄道では上野広小路駅と松坂屋、日本橋駅と高島屋・白木屋、京橋駅と明治屋、銀座駅と松屋・三越の5駅が、百貨店側の資金提供を受けて建設されました。現在もアナウンスにはスポンサー名が入れられています。 他には? ありました。近江鉄道には、「京セラ前駅」「フジテック前駅」「スクリーン駅」というのがあります。 駅名ではありませんが、りんかい線「品川シーサイド駅」のホーム駅名表示に、8月1日から「楽天タワー前」というのが加わりました。 さらに神戸市交通局は、市営地下鉄22駅の駅構内の駅名表示板に、企業名を「〇〇前」と併記する権利を売り出しました。全駅で年間2200万円以上の収入になる見通しだそうです。 駅名が企業名だらけになる時が来るかも… 南風あったかげん記−576−今日は、社会科フィールドワークに参加しました。尾張・名古屋の社会科教師で作る会のメンバーが交代でホストをし、社会科教育に役立つ地域素材を紹介する会です。 今年の係は名古屋市。3班に分かれて、名古屋港〜藤前干潟、JICA、エコバルなごや〜アサヒビール名古屋工場を見学します。わたしは3番目の班になりました。 エコパルなごやは、身近な環境から地球環境まで、幅広い視野で楽しみながら環境問題を考えることができる施設です。参加型・対話型の形態が魅力的でした。校外学習などにお薦めです。 御園座の南にあり、HPも充実しています。 http://www.ecopal.city.nagoya.jp/ 守山区のアサヒビール名古屋工場では、ビールの製造工程はもちろん、企業としての環境に対する取り組みを学ぶことができました。徹底したリサイクル、省エネには、学ぶべき事が多くありました。 百聞は一見に如かずといいますが、まさにその通り。こうしたフィールドワークは社会科教師にとっての基本です。これは、子どもたちでも同じ。こうしていろいろ見たり、体験したりすることが、社会との距離を縮めていくのです。 南風あったかげん記−575−今回は、自分の疑問を解調べてみます。 かつて、修学旅行の職場訪問で東映東京撮影所へ行ったことがあります。「忍者戦隊カクレンジャー」の着ぐるみ?衣装?が脱いであり、リアリティを感じました。 そこへ行くには、西武池袋線大泉学園駅で降りてから歩きます。ついでに、大泉学園へ行こうと思ったのですが、交番(当時は派出所)で尋ねるとそんな学校はどこにもないのです。えっ、なぜ? 調べてみると、そのあたりは学園都市として開発が計画されていたところで、当時は今の現筑波大、東京学芸大を誘致する予定だったそうです。誘致に失敗して、名前だけが残りました。 これはおもしろいと、他を探してみました。 「女子大駅」(写真左)は、千葉県佐倉市にある山万ユーカリが丘線の駅です。和洋女子大学の移転誘致を見越してこの駅名を付けましたが、移転は中止になり駅名だけが残りました。 まだまだありますよ。学芸大学駅は、東京都目黒区、東急東横線の駅です。東京学芸大学は40年以上前に小金井市へ移転しましたが、いまだに名前だけが残っているのです。時々、大学受験で間違えてここに降りる受験生がいるそうです。 その隣は「都立大学駅」(写真右)という駅名ですが、学芸大学駅と同様、同名の大学は移転しました。それどころか、都立大学の名も「首都大学東京」と変わっているので、学校そのものが存在しません。駅名の根拠は全くなくなったのです。 駅名の変更はそれほど難しいのです。商店街の名や数々の看板、地域への浸透度等、いろいろ加味すると駅名を変えない方がメリットが大きいと判断したのでしょう。 たかが駅名、されど駅名…。 今日の応援練習今日の部活動今日の学習会南風あったかげん記−574−板取へ行っていました。ツクツクボウシの鳴き声や朝夕の涼しさには、秋の接近を感じました。 オリンピックを見ていて気がつきました。「同じ国旗がある!」 調べてみるとありました。上の国旗は、別の国のものなのです。左がインドネシア、中央がモナコ、右がポーランドです。 インドネシアの国旗は、1945年の独立宣言の時に制定し、49年に正式に承認されました。赤は勇気と情熱を、白は真実と聖なる心をあらわしています。縦横の比は2:3です。 モナコは世界で2番目に小さな国で、国旗の制定は、Wikipediaでは1881年(資料によっては1818年)になっています。しかし、歴史を遡ると、どちらもこの旗が古くから使用されていたようであり、どちらが真似をしたということではありません。モナコは縦横比が4:5になっています。 ポーランドの国旗は、白は共和国の尊厳を、赤は自由を表すものとされ、1990年に制定となっていますが、これも中世から使われていたようです。縦横比は5:8です。 こうやって調べていくと、どの国の国旗にも歴史がある事がわかります。互いに尊重し合わないといけません。 南風あったかげん記−573−アフリカ最南端は?と聞くと、ほとんどの人が「喜望峰」と答えます。 喜望峰はケープタウンの南にあるケープ半島を南へ60キロほど行った先端にあります。左写真の左端にある栓抜きの先みたいな所です。「Cape of Good Hope」なので、「希望岬」の方がより近いかもしれません。 この半島にある街は、まるでヨーロッパの港街のようです。歴史的にも、南アフリカ共和国発祥の地であり、当時の古いヨーロッパがまだ残っています。 この喜望峰は、1488年にポルトガル人、バーソロミュー・ディアスが発見し、その9年後、バスコ・ダ・ガマが近くに上陸し、街をつくりました。 写真を見ておわかりのように、アフリカ最南端ではありません。喜望峰から東南東へ直線距離で160キロほど行った、アガラス岬が最南端です。50キロ程、より南にあります。 岬までの海沿いの道路脇は、豪華な別荘が並んでいるそうです。そして、アフリカ大陸最南端には碑(写真右)があり、左が「インド洋 INDIAN OCEAN」、右が「大西洋 ATLANTIC OCEAN」と書かれています。 スケールの大きな話です。 南風あったかげん記−572−世間の誤解といえば…、すぐに思いつくのが船の大きさを表す単位です。 たとえばあのタイタニック(写真左)は総トン数46,328トンですが、この「トン」は何を表すの? これは、10トントラックの「トン」とは違います。重量ではないのです。 船の大きさを表している「トン」という単位は、酒樽を叩いたときの“トン”という音に由来するのです。 基本的に、単位というのは、身近なものが基準になります。 船は、ワインの輸送手段として使われた時に、酒樽が何個積めるかが船の大きさを表しました。当時の酒樽1個の容積は約40立方フィート(およそ1,100リットル)で、これが1トン。その酒樽を叩いて数えていたので、「トン!」と音がして、その音の数で○トンと表していました。 もっとも、酒樽1個を単位としていたかつての基準も、現在は100立方フィート(約2.8立方メートル)が1総トンとなりましたが、重量ではなく、容積であることには変わりません。 しかし、船の大きさを示すトンには2種類あり、「容積トン」以外に「重量トン」もあるのです。 容積トンは「樽を何個積めるか」なので、樽を積めないところを除きます。あくまでも積み荷が対象です。 しかし、重量トンは「排水量」と「載貨重量トン(DWT)」を表します。 軍艦の大きさは排水量です。船の重量と一致します。戦艦大和(写真右)は排水量65,000トンでした。 また、「20万トンタンカー」とは、最大積載油の重量のことです。貨物(自己の燃料等も含む)の最大積載量の重量を表します。10トントラックと同じです。 いずれにしろ、これらは種々の手数料や船にかかる税金の基準となり、大切な数字です。 詳しくは「船舶のトン数の測度に関する法律」というのがあるので、検索してご覧ください。 今日の熱中症予報南風あったかげん記−571−今日8月15日は全国戦没者追悼式が開かれる、63回目の終戦の日、終戦記念日です。あらためて、先の大戦において亡くなられた内外の方々を追悼し、平和を祈念したいと思います。 今日の各新聞の社説は、日経を除いて、終戦記念日にちなんだものでした。全く異なる視点から、それぞれ読み応えのあるものでした。ぜひご覧ください。 社説リンク http://www.ne.jp/asahi/sec/eto/paperhtml/editor... さて、今回の社会科こぼれ話のシリーズは、常識といわれてきたことに対する異論を紹介してきました。 それでは史実として戦争が終わった日はいつなのでしょうか? 高校の日本史教科書の多くは、8月14日がポツダム宣言受諾が決定され連合国側に通告した日、8月15日は戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日(写真左)、9月2日は日本が降伏して戦争が終結した日(写真右)としているようです。これによると、9月2日のニュアンスが強く感じますね。 海外ではどう考えているのでしょうか? アメリカでは、対日戦勝記念日は9月2日と考えています。カナダやフランスも同様です。またロシアや中国は9月3日を対日戦勝の日としています。 イギリスは8月15日です。韓国でも15日を光復節として、日本の植民地支配からの解放を祝う日となっています。 諸説ありますが、いずれにしろ、どこかで歴史を振り返り、平和を祈念することは大切なことです。中日新聞社説は「辛い歴史と向き合うべき日」とありましたが、その通りでしょう。 オリンピック年として、あらためて、世界の平和を強く強く祈ります… 南風あったかげん記−570−飛鳥の宮はどこにあったのでしょう? 確かに、平安京は京都御所、平城京は平城宮。飛鳥は?と聞かれると困ってしまいます。 なぜなら、当時は、同じ宮を次の天皇が使うことはほとんどありませんでした。それどころか、一人の天皇が複数の宮をつくることもありました。 飛鳥時代の始まりとされる推古天皇は、蘇我氏の邸宅跡を利用した豊浦宮(写真左)で即位し、小墾田宮で本格的な体制を作ったと思われます。小墾田宮へ移ってから、すぐに冠位十二階が制定され、憲法十七条が発布されたからです。もっとも、小墾田宮は現在のどこになるかは諸説有り、確定していません。 次の舒明天皇にいたっては、小墾田宮で即位し、飛鳥岡本宮に遷り、火災のため田中宮に遷り、厩坂宮を経て百済宮に遷っています。 当時は「死の穢(けが)れ」を避けたり、病気の流行、災害のたびに縁起を担いだりして遷都していたのでしょう。このあたりの事情は、次のサイトに詳しく載っています。写真左の出典もこのサイトです。 《参考》飛鳥の宮 http://sanzan.gozaru.jp/miya/miya-top.html こうして、孝徳天皇の難波宮、天智天皇の近江大津宮を除いては、飛鳥の中だけで遷っていました。次の藤原宮も飛鳥の近くです。この間、約100年間を飛鳥時代とよんでいるのです。 藤原宮では、持統、文武、元明と三代16年間にわたって都が置かれます。同じ宮で三代続くのは空前のことです。組織が大きくなり、引っ越しもしづらくなったのでしょう。 その藤原宮は、発掘調査の結果、平城京・平安京をしのぐ、最大の都であったことが分かってきましたした。この地で、大宝律令が出されたのです。中央集権が進んできたことが分かります。 藤原京(写真右)の出典は 「藤原京CG再現プロジェクト」http://www.nara-su.ac.jp/archives/fujiwaracg/pa... 南風あったかげん記−569−奈良へ行っていました。これまでに何度も訪れていますが、毎回新しい発見があります。 特に飛鳥は、家が増えたといっても、甘樫丘や大和三山などを見ると当時の風景が想像できます。聖徳太子や蘇我馬子が大仏を拝み、天武天皇や持統天皇が飛鳥浄御原宮にたたずんでいたと考えるだけでロマンが香ります。 その後、藤原京を経て710年に都が平城京に移ります。2年後は遷都1300年という記念の年になるので、奈良の街は活気づいていました。 ※ 平城京は、教科書では「へいぜいきょう」と読ませる例が増えています。当時は「ならのみやこ」と読んでいたようです。奈良市は「へいじょうきょう」を使うようです。 実は、都が平安京に移った後は、平城京は田んぼになっていました。当時は、都を移すと人も建物もそっくり引っ越ししていたのです。経済的にはかなりロスだと思うのですが、平安京でやっと定着します。 ※ 考えてみれば、有力者が亡くなるたびに古墳を造営するのも経済的なロスでした。当初は公共事業的な意味合いがあったかもしれませんが、続くわけがありません。徐々に小さくなり、仏教の普及により古墳も姿を消しました。 平城京は忘れ去られてしまいましたが、江戸時代の末になって、ようやく平城京のことを思い出した人がでてきました。藤堂藩(三重県)の奉行所に勤めていた北浦定政が実測調査を行い、平城京の位置と規模が明らかになったのです。先日紹介した光仁天皇陵の前に、北浦定政の顕彰碑と墓があります。 その後、平城宮跡一帯の大部分は国の所有となり、保護されることになり、今につながっているのです。 平城宮跡を横切る近鉄奈良線の移設計画もあるほどです。北浦定政の行ったことは、今思うと偉大な一歩でした。 今日の熱中症予報南風あったかげん記−568−
☆★☆ 社会科こぼれ話−23− ☆★☆
オリンピックで外国人選手を見る時、私はまずどの辺りの国の人かを予想してから、その後確認しています。多民族社会なので当たらないこともよくありますが…。 ヨーロッパで、ハンガリーとフィンランドはアジア系だといわれています。フン族の流れにあるから、フンガリー→ハンガリー、フンランド→フィンランドになったというのはホント? 調べてみると諸説あるのです。 ただ、少なくとも言語学的にはつながりがあるようです。世界の言語には英語などのように、主語の後にすぐ述語が来るグループと、日本語のように最後に来るグループがあります。 日本語のような、いわゆる「ウラル・アルタイ語」系は世界に広がっています。 日本語、韓国語(朝鮮語)、モンゴル語、トルコ語、ハンガリー語、フィンランド語、旧ソ連の中央アジア諸国の言語などがそうです。 中国は英語と同じ語順ですが、中国を迂回して見事につながっています。 フィンランド人の名前も興味深いです。ニュースなどにでてくるフィンランド人の名前は、もしかして日本人?と思うような名前が多く出てきます。F1ドライバーのミカ・ハッキネンにミカ・サロ、そしてキミ・ライッコネン。映画監督のアキ・カウリスマキ。ヨウコやカウコなんて名前も一般的ですが、全て男性の名前です。 ハンガリーにいたっては、姓名は本来、日本人と同じく「姓・名」の順なのです。 その他詳細に調べると、フィンランド語・ハンガリー語で共通する特徴は、日本語と共通する点もあるが、他のヨーロッパの言語と共通する点は少ないか、全くないそうです。 こんなオリンピックの見方はいかが? ( 参考 http://homepage3.nifty.com/taketoki/finhan.html ) 南風あったかげん記−567 ―
☆★☆ 社会科こぼれ話−22− ☆★☆
昨晩は遅くまでバドミントンの試合を見ていた方が多いのではないでしょうか。オリンピックは日頃なかなか見ることができないスポーツを見ることができます。普段からいろいろな種目を目にすることができれば、もっと生涯スポーツが浸透するのではないでしょうか…。 さて、昨日、ある間違いを発見しました。あるところでやっていたフリーマーケット。「FREE MARKET」と書かれていたのです。自由な市場という意味はよく分かるのですが…。 パリの蚤の市は有名ですが、フランス語marche aux pucesを訳したのがflea market。このfleaは身体の血を吸うノミではなく、「汚らしい、みすぼらしい」といった意味で使われています。新品でなく、中古品も売っているという意味です。 ヨーロッパでは、掘り出し物の中に古美術などが含まれることが多く、有名画家の絵画が発見されることもあるそうです。そう思って見て回るだけでも楽しいですね。 南風あったかげん記−566 ―今日は奈良に来ています。光仁天皇陵や太安万侶の墓などを見てきました。 さて、最近、新聞でよく見るのが医師の不足。小児科や産婦人科では深刻そうですが、人口1,000人当たり医師数の国際比較(2004年)は次の通りです。 http://www.med.or.jp/etc/iken/iken3.pdf 資料の中では日本は下から4番目、1,000人あたり2.0人です。多い方からは、ギリシャ、イタリア、ベルギーという順でした。 別の統計資料では、多い方からイタリア、キューバ、モナコ、ロシアという順でした。この資料では、イタリアの医師1人が見る患者数は162人、逆に最も医師の少ないリベリアでは、1人の医師が116,667人を看ています。何と720倍の格差。この数字をどう見るのか。 もっとも、イタリアは、公的な診療機関は無料ですが、診察のみで治療はしないのです。治療を受けたい時には、別に有料の医師にかかるのです。だから医師の数が多いのかもしれません。 ところがです。日本は、先進国中、国民1人あたりの診療回数は14.1で世界一なのです。医師は少なく、診療が多いのだから、日本の医師は忙しいはずです。 ここからは聞いた話です。 ☆ ヨーロッパでは、インフルエンザぐらいでは医者にかからない。(費用も高額?) ☆ スイスの会社が製造したあのタミフルも、その4分の3以上を日本が買っている。 こう考えると、医者のかかり方も考えなければいけませんね。 今日の熱中症予報中本町盆踊り中本町盆踊り |
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