最新更新日:2024/06/26 | |
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南風あったかげん記−592−社会科こぼれ話も今日と明日を残すのみ。ネタは気づいた時にメモするのですが、実は、まだたくさん残っています。そうか、冬休みまで取っておこう! 今日は、歴史の誤解シリーズ。 歴史上の人物で、実物と最もイメージが違うと思われる人は誰でしょうか? 数人に聞いてみたところ、坂本龍馬の子ども時代とか、モーツァルト、ナポレオンという意見をいただきましたが、他を離してトップに輝いたのは(といっても3票ですが)、一休さんでした。 私も同感です。何と言っても、昔から伝わるとんち話と、中国やタイ、ハワイなどでもみられているあのアニメが一休さんのイメージを作り上げました。特に中国へ行った時は、子どもたちは誰でも一休さんを知っており、その主題歌を歌えることに驚きました。もちろん中国語でしたが…。 実際の一休さんは、どんな人物だったのでしょうか? モデルは一休宗純という、室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧です。京都の生まれで、一説には後小松天皇の落胤といわれ、宮内庁もその説を採用して、一休の墓は宮内庁が管理しています。後小松天皇といえば、南北朝が合一した時の北朝の天皇です。アニメでは、一休のお母さんは南朝の人になっていましたが、実際はどうだったのでしょう? 幼名は、周建。22歳で大徳寺に入り一休の名をもらいます。しかしその5年後、悟りを開き寺を出て、以後は詩・狂歌・書画と風狂の生活を送りました。 風狂とは、禅宗において重要視される戒律などから逸した行動を、本来は破戒と言われるべきものを、悟りの境涯を現したものとして評価した言葉です。七福神の布袋、「寒山拾得」で有名な寒山も風狂僧の一人です。 それでは、どんな破戒、いや風狂生活だったのでしょう。 寺に入らず飲酒、肉食や女犯を行い、正月には小汚い格好で髑髏をもってまわったのは有名な話です。仏像を枕に寝たり、由緒ある文書を役に立たないと燃やしたりもしたそうです。 これらは、戦乱や飢餓で苦しむ民衆を救うことなく、私利私欲に走る当時の仏教界を批判した行動なのでしょう。実際に、大徳寺などを再興したり、天皇に進言、乱世をもたらした幕府を批判し、民衆と親しくするなど、偉人であり、東山文化を代表する才人でした。器の大きな人物でした。 88歳で自ら再興した酬恩庵(写真右)に没しました。 |
岩倉市立南部中学校
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