最新更新日:2023/05/20 | |
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「父のこと」
校長 富永雅明
個人的な話で恐縮ですが,私の父は,若い頃から塩業会社に勤務しておりました。現在は,イオン交換膜製塩法といって,陽イオン(Na+)だけを通す膜と陰イオン(Cl−)だけを通す膜を使い,イオンの移動によって食塩(NaCl)を作っていますが,以前は,入浜式塩田や流下式塩田という,雨が少ない香川ならではの製塩法で作っていました。父の仕事は,濃塩水を煮詰めて水を蒸発させ,塩を取り出すことでした。室温は50度以上にもなっていて,普通の人は,とても近寄れません。夜も交替で働いておりましたから,朝帰った時は,それから寝ます。私が小学校1年生の頃でしたか,子ども心に,昼間から寝ている父がいやで,そんなふうにはなりたくないと思ったものでした。4年生の頃,『親の職場を見学する』という宿題が出て,初めて行くことになりました。そこには,汗びっしょりで働いている父がいました。そうだったのか。今まで考えていた自分に恥じるとともに,父のことを誇らしく思えた瞬間でもありました。 そんな父が私に一度だけ話をしてくれたことがあります。昭和20年7月4日,父が18歳の時でしたが,高松大空襲があって,夜中の3時頃から2時間くらい焼夷弾の爆撃を受けました。坂出から見ていても,高松の空がぱっと明るく見えたそうです。焼夷弾と言うのは,火災を起こすための爆弾で,高松はすっかり焼け野が原になってしまいました。その後,父が高松へ片付けの手伝いに行ったところ,高松城のお堀の中に,たくさんの焼かれた死体が折り重なっていたそうです。それ以後,父からこの話を聞くことはありませんでした。そして,8月15日。ついに日本は,第2次世界大戦に終わりを告げました。 父は,7ヶ月の入院後,5月3日に87歳で亡くなりました。初めの頃は自分でごはんを食べていましたが,だんだん食べられなくなって私がスプーンで1杯ずつ口に運んであげますと,「ありがとな。ありがとな。」って言いながらうれしそうに食べます。それが私の唯一の親孝行だったのかもしれません。トイレも一人でできないので,看護師さんに手伝ってもらうのですが,また,「ありがとな。ありがとな。」って2回ずつ言います。今思えば,感謝の心を忘れない人だったのだと思います。 亡くなる1週間前に病院の先生に呼ばれて,「難しいですよ。」と言われました。 そして,1週間後の朝,病院へ行くと急に容体が悪くなっていました。「家族の人を急いで呼んでください。」と言われました。血圧が80,70,60とみるみる下がっていき,やがて家族みんなに見守られながら静かに息を引き取りました。 何の取り柄もなく,実に平凡な人でしたが,人のことを悪く言ったり,いやなことをしたりしない人で,争いごとを嫌う,平和を愛する人でした。 高松大空襲から70年。父の思い出を通して,普段はあまり考えることのない「戦争」や「死」について書かせていただきました。未来を生きる子どもたちに,平和な社会が永遠に続くことを祈ります。そして,「これからどう生きていくのか」について,少しでも考えさせることができればと思っています。 坂出市連合児童会がありました
4日(火)に坂出小学校で坂出市連合児童会が開かれ,府中小学校からも4名の児童が代表として参加しました。各学校での取り組みを発表したり,困っていることを話し合ったりして有意義な時間を過ごすことができました。いじめ0の学校づくりに向かうよいヒントを見つけられたようです。
瀬戸大橋パレード |
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